5 近代オリンピックとスポーツ伝搬

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1891年ビスコーがカシミールの青年にサッカーをさせた年から5年後の1896年、アテネで近代オリンピックの第1回大会が開催されます。この近代オリンピックはフランスの貴族ピエール・ド・クーベルタンによって1894年に提唱され、欧米主要国のスポーツ界有志によるパリでの国際会議を経て1896年に開催にこぎ着けます。

もともとクーベルタン普仏戦争に負けたフランス兵士の体力問題から身体運動に近づき体力つくリの為の方策を視察にイギリスへ渡ります。イギリスでクーベルタンパブリックスクールで行われていたスポーツの教育的価値に関心を深めます。その後どのような経緯でオリンピック開催に向かっていったのかはよく分かりません。ただ、古代オリンピック競技の復活は当時オリンポス遺跡の発掘などもあって時代の関心事でもあり、クーベルタン一人の発想ではなかったようです。この第1回大会は参加国・地域数14 、参加人数245人 競技種目は陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目という規模でのスタートでした。それが、2012年の第30回ロンドンオリンピックは、参加国・地域数204、参加人数10,931人 競技種目数26競技302種目という規模にまで成長しています。参加国・地域は国連加盟国(193)を凌いでいます。このオリンピックの成長は近代スポーツという文化が地球規模に広がったことをも意味しています。帝国主義時代、ビスコーのような青年によって植民地に伝えられていった近代スポーツですが、ちょうどそのころ発足した近代オリンピックがその発展の中でスポーツを地球規模で広げていったといえるでしょう。

近代オリンピックはビックビジネスに成長し利潤追求に利用されたり、ヒトラーベルリンオリンピックなどに象徴されるような国家のプロパガンダに利用されたりなど、いくつもの側面を見せながら今日に至っています。その中で、参加国・地域のこの広がりはIOCや関連資本の市場が地球規模に広がったことを意味していますが、この市場拡大という資本主義の競争機能によって近代スポーツは地球規模に広がったと言えるでしょう。

4 青年たちの使命感

フットボールカシミール地方に伝えたビスコーたちイギリス青年についてもう少し詳しく、、、、現代スポーツ評論1「筋肉の福音」によると、、

ビスコーはパブリックスクール卒業後1883年にケンブリッジ大学へ進学。大学時代ボート競技のコックス(舵手)となって活躍する。パブリックスクールを出たエリートはオックスフォード、ケンブリッジへ進む。両校とも様々なスポーツが盛んで頻繁に対抗戦が行われていた。オックスフォード大学のカラーはダークブルー、ケンブリッジ大学ケンブリッジブルーと呼ばれるエメラルドグリーン、代表選手はそれぞれのカラーのブレザーを身につけることから「ブルー」と呼ばれていた。「ブルー」に選抜されることは学内の英雄であり卒業後も「オールド・ブルー」は尊敬の的。これが植民地キャリアには有効に作用したとのこと。厳しい自然環境、慣れない地域での生活の中でも植民地行政官や宣教師として任務を全うできるのは、インテリよりも体育会系の学制の方が重用された。ビスコーも「ケンブリッジ・ブルー」として活躍していた。

ビスコー同様、世界各地へ赴く体育会系卒業生は多く、サッカーボールと自転車を携えてアフリカ傳道向かった青年、中央アフリカに向かった陸上選手等々の中で、中国内陸部の傳道に参加したクリケットやボート、ラグビーなどの選手7人は「ケンブリッジ・セブン」と呼ばれている。

 

インドに赴いたビスコーは他の植民地へ赴いていった青年たちと同様に使命感を持っていた。「未開」「野蛮」な世界に自分たちの高度な文明を伝えるという使命感である。キリスト教化と文明化が一体化されていたようである。その使命感には、異文化を理解しようとする態度は全くなく、ただ相手を「遅れた野蛮人」と断定し強硬に「改善」を迫る一方的な「善意」であったようである。

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3.パブリックスクールと植民地支配

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モブフットボール英語版」と呼ばれることがあるイングランドで行われていたフットボールの初期の形は、近隣の町や村の間で行われていた。モブフットボールは隣の教区との間の開けた場所で行われ[24]、人数は無制限であり[25]、膨らませた動物の膀胱[26]といった物を特定の場所(相手の村の教会など)に移動させることを目的に争われた。この競技は懺悔節クリスマス復活祭[26]といった重要な宗教的祭りの期間に主に行われ、シュローブタイドゲームはイングランドの多くの街で現代まで生き残っている (Wikipediaより)

このフットボールパブリックスクールで行われルールが整備され、ラグビーやサッカーへと発展していったことは有名です。パブリックスクールで育てられる強靱な身体と豊かな教養はイギリス人ジェントルマンとしてのステイタスであり、ビスコー等植民地支配に赴くイギリス青年の備えた資質であったようです。彼らが植民地にイギリスの近代スポーツを持ち込むことは当然の成り行きだったと思われます。インドにはカバディ(kabaddi)という2000年以上の歴史を持つ身体運動(ゲーム)があったのですから、サッカーなどの近代スポーツを持ち込強要していったのは文化的侵略とも言えるのではないかと思います。

 

 

2.何故白人指導者は無理矢理青年にボールを蹴らせたのか

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大英帝国の植民地支配

 

19世紀の帝国主義時代、イギリスの植民地は地球を一周しています。日の沈まぬ帝国です。アジアへの進出は1600年の東インド会社設立からはじまり、オランダやフランスなどと植民地争奪の争いを続けながら1858年にはインドのムガル帝国を滅ぼし、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させました。この植民地支配がスポーツの伝搬に関連しているようです。カシミールの青年にサッカーを強制したビスコーという若い教師もイギリスから来た宣教師でした。実はビスコーはサッカー以外にもクリケットやボートなど様々なスポーツを伝えたようです。ビスコーはパブリックスクールからケンブリッジへ進学したエリートの一人。卒業後宣教師となったビスコーは弁護士、陸海軍士官、医者、植民地行政官、大貿易商等と同様イギリスのジェントルマンであり、イギリスの文化や政治経済に誇りを持ち、その文明を植民地へ広めていくことが後進国への自分たちのなすべきことととらえていたようです。自国の文明を最高のものととらえ支配地域へ広げていくことは実質的には文化的な侵略でもあります。サッカーをカシミール地方へ広めていこうとしたこともその一部です。

 

   つづく・・・

1.インドカシミール地方でのサッカー

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スポーツと国家、教育の関係についてちょこっと考えてみたいと思います。

最初に、今から100年以上前のスポーツについてのある出来事をひろって考えてみます。

 

1891年11月、インドカシミール地方、スリナガールのあるミッションスクールで、一つのサッカーの試合がキックオフされようとしていた。選手はすべて地元の若者たち。周囲にはたくさんの見物人たちが集まってきていた。これからなにが起きようとしているのか、彼らには見当もつかなかった。選手たちにとっても、見物人たちにとっても、サッカーなど初めての経験だったからである。フィールドは異様な雰囲気につつまれていた。手に手に棍棒を持った現地人教師たちが周囲を取り囲んでいたのである。人々の中心には一人の白人教師がいた。セシル・E・テインダル=ビスコー。前年に着任したばかりの若い教師だった。・・・

 

(現代スポーツ評論 創文企画 「筋肉の福音」より)

白人教師は青年たちにボールを蹴るように指示しますがだれも蹴りません。ヒンズー教では牛は神聖な生き物。ボールは牛の皮でできているのです。キックオフで最初に無理矢理蹴らされた少年は神聖な牛を穢したとしてこの後3ヶ月は帰宅が許されなかったそうです 牛革のボールを強制的に蹴らせたビスコーとはいったいどんな教師で、何のため現地の青年に無理矢理サッカーをさせたのでしょう?

スポーツと国家の関係、スポーツと教育の関係を考えるためにはまず19世紀後半にさかのぼって勉強する必要がありそうです。

 

 

2に続く・・・・