4 青年たちの使命感

フットボールカシミール地方に伝えたビスコーたちイギリス青年についてもう少し詳しく、、、、現代スポーツ評論1「筋肉の福音」によると、、

ビスコーはパブリックスクール卒業後1883年にケンブリッジ大学へ進学。大学時代ボート競技のコックス(舵手)となって活躍する。パブリックスクールを出たエリートはオックスフォード、ケンブリッジへ進む。両校とも様々なスポーツが盛んで頻繁に対抗戦が行われていた。オックスフォード大学のカラーはダークブルー、ケンブリッジ大学ケンブリッジブルーと呼ばれるエメラルドグリーン、代表選手はそれぞれのカラーのブレザーを身につけることから「ブルー」と呼ばれていた。「ブルー」に選抜されることは学内の英雄であり卒業後も「オールド・ブルー」は尊敬の的。これが植民地キャリアには有効に作用したとのこと。厳しい自然環境、慣れない地域での生活の中でも植民地行政官や宣教師として任務を全うできるのは、インテリよりも体育会系の学制の方が重用された。ビスコーも「ケンブリッジ・ブルー」として活躍していた。

ビスコー同様、世界各地へ赴く体育会系卒業生は多く、サッカーボールと自転車を携えてアフリカ傳道向かった青年、中央アフリカに向かった陸上選手等々の中で、中国内陸部の傳道に参加したクリケットやボート、ラグビーなどの選手7人は「ケンブリッジ・セブン」と呼ばれている。

 

インドに赴いたビスコーは他の植民地へ赴いていった青年たちと同様に使命感を持っていた。「未開」「野蛮」な世界に自分たちの高度な文明を伝えるという使命感である。キリスト教化と文明化が一体化されていたようである。その使命感には、異文化を理解しようとする態度は全くなく、ただ相手を「遅れた野蛮人」と断定し強硬に「改善」を迫る一方的な「善意」であったようである。

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